きみは「Let it be」と言った

ありのままの自分でいること

ぼくの過去に対する考え方

自信がなくなったら、過去にすがりつけばいい。
その過去は、とことんまで美化されていてもいいと思う。
その過去にひたればいい。
それは、たしかに自分が生きてきた過去だから。
 
 
今日からちょっとずつ、ぼくがこれまでに経験してきたことも書こうと思う。
自分を見失った時、次にうごくための羅針盤を確保しておくために。
ぼくが何を考え、どう生きてきたか、どう生きていこうかを示すために。
万に一つの可能性で、僕の羅針盤がためになるかもしれないあなたのために。
 
 
ぼくは、大阪で生まれて高校までを過ごし、岡山で大学、大学院で薬学を学び、東京でITを仕事に社会人をしている。
現在28歳。
 
好きな海外の詩人は、こんな厳しいことを言った。
「生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。たいていの人は、ただ存在しているだけである」
この言葉を自分に当てはめると、
ぼくが生きていたのは、高校生から、社会人まで。
今は存在しているだけかもしれない。
自信を持って「生きている」とは言いきれないから。
 
今日は僕の人生で一番生きていた、大学休学前の部分だけを記事にしてみようと思う。
サラッと概要みたいなものだけを書いてみる。
それぞれの出来事のより詳しいことは、今後、別の記事で書いていこうと思っている。
 
 
もう6年前になるけど、ぼくは大学を1年間休学して海外に1人で行った。
今では割と浸透した、パックパッカーというものをしていた。
 
当時、薬学部に在籍していたけど、将来の方向性がわからなくなってしまった。
どう生きていけばいいか、何を人生の命題にするかがわからなくなってしまった。
 
薬学部でもぼくが在籍していたのは、6年間大学に通って、薬剤師の免許が取れる学科ではなくて、
4年間大学に通って、卒業後、就職するか、卒業後、2年間大学院に行くか、のどちらか。
 
当時、社会人になっている未来はまったく見えておらず、モラトリアム全開で、自分は何がしたいのか、ばかり考えていた。
 
 
当時の日記を読み直してみた。
20歳、大学2年生の頃に、ある事件が起こってから、
薬の勉強に身が入らなかったぼくは、現状に対して、悩み、不安に満ちていた。
不満に満ちているけれど、自分自身の能力があるわけではないから、背伸びに力を入れていた。
そんな格好の悪い文章が散らばっていた。
 
その頃だろう、パックパッカーという言葉に出逢ったのは。
そして、パックパッカーの聖地と言われている場所がタイにあると知った。
そして、21歳の夏休み、ぼくはひとりでタイに行った。
薬の勉強から、今の現状から、そして、着実と迫ってくる未来から逃れるように、日本を出た。
 
はじめてみた海外の街はカラフルだった。

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車やバイクの騒音、巻きあがる砂埃やほこり、刺激臭、肌の色が違う人たち、原色を使った看板が街に溢れていた。
活気があるけど、どこかでさみしさも垣間見えた。
当時岡山で大学生をしていた僕にとって刺激が強かった。
日本の地方都市とは別世界の景色に見えた。
心が踊った。
 
自分の未来を決めるには、あまりにも自分が何も知らないことを知った。
そして、薬の勉強以外の未来、自分の可能性を想った。
「一人で海外に行って、みんなの見たことがない景色を見る」ことが当たり前であることを知らなかった僕は、それだけを根拠に自信を持った。
いろんな人と話すことで、自分の未来が見える気がした。
 
 
そのまま、いつ崩れてもおかしくない自信だけをもって、次の年、2013年に僕は大学を1年間、休学した。
自分が何かしたわけではないのに、何かができるわけでもないのに、僕は一人で海外の見たい景色を見に行った。
僕の前には、茫漠とした世界があった。
 
 
今日はここまで。
自分のこれまでのことを書くことは、やっぱり難しい。
なにが伝えたいのかわからない文章になってしまった。
 
ここまで読んでもらって、時間を無駄にしたなって思う方がいたら、本当にごめんなさい。
ぼくの中に存在している、ぼくの過去の形。
この記事を一つのピースとして、これからどうにかぼくの過去を描いてみようと思うから、もしまた目を通していただけるのであれば、見てみてほしい。
次は、もっと具体的に、短い期間の出来事を書いてみるつもりだから。
 
 
最後に、2013年9月18日の日記の中に、こんな文章があった。
「言葉にするほど、物語として書き記せば記すほど、事実とは程遠いものになってしまう。」
 
たしかに、事実を記すことは不可能で、事実と違うものができるかもしれない。
それでもいいじゃないかと思う。
しっかり生きた現実があるんだから。
書き記す行為は今を生きることのために大切で、事実かどうかは、本人さえわかればいい。
すべての事実を自分以外の人に伝えるなんて、不可能なのだから。
これが俗にいう、丸くなった、ということなんだろうか。